テニス肘NAVI:伊達公子

伊達 公子

テニス,伊達公子

WTAツアーでシングルス7勝、ダブルス1勝を挙げ、4大大会の女子シングルス準決勝に3度進出した。伊達は「ライジング・ショット」の名手として、世界的にも有名な選手であった。日常生活でも、サインのときなど、左手を用いることがある。本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。

 

伊達 公子(だて きみこ、本名:クルム 伊達 公子(クルム・だて・きみこ)、1970年9月28日 - )は、日本の女子プロテニス選手。これを含めて、4大大会でのシングルスベスト8入りは6回にのぼり、いずれも日本女子選手歴代最多記録である。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。夫はレーシングドライバーのミハエル・クルム。

 

京都府京都市上京区出身。シングルス自己最高ランキングは4位(1995年11月)。日本サッカー協会理事。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした選手である。

 

血液型はB型。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、“ライジング・サン”(日の出)と呼ばれた。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。

 

1994年、1月にオーストラリアの「ニュー・サウスウェールズ・オープン」で海外初優勝。この4回戦で、当年度のウィンブルドン準優勝者ヤナ・ノボトナを破る。

 

直後の全豪オープンで初の4大大会ベスト4進出を果たしたが、準決勝でグラフに 3-6, 3-6 で完敗。準決勝で当時世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニを破る大金星を挙げ、決勝では当時の女王モニカ・セレシュに挑戦した。WTAツアー年間最終戦の「チェイス選手権」2回戦で、当時16歳のマルチナ・ヒンギスに 1-6, 2-6 で敗れたのが現役最後の試合となる。ウィンブルドンと全米オープンにも本戦出場。

 

伊達の世界的な活躍は、日本の女子テニス界にも計り知れない刺激を与えた。高校時代には、兵庫県尼崎市にあるテニスの名門校・園田学園高等学校にて光国彰監督の指導を受けた。

 

1995年の全米オープンでは実に8人の日本人選手が本戦に直接出場するなど、伊達が活躍した時代は日本勢全体の活躍が目立った時期であった。グラフは伊達を数少ないトッププレイヤーの1人として認めており、試合後「伊達に負けたことは恥ずかしくない」と語った。

 

日本人選手として初めて女子テニスツアー年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」の出場権を獲得し、準決勝まで進出した[1]。同年、「サントリー・ジャパン・オープン」でWTAツアーにデビューし、岡本久美子との準々決勝まで進出。世界ランキング8位での引退だった。1995年、2月の東レ・パン・パシフィック・テニスで初優勝。第1セットはグラフが 6-3 で先取したが、第2セットを伊達が 6-2 で取り返したときに試合が日没順延となり、翌日に持ち越された第3セットはグラフが 6-3 で取ったため、日本人選手初の4大大会決勝進出はならなかった。全仏オープンで初めて4大大会のシード選手になり、4回戦に進出。

 

リプトン国際選手権で準優勝。1996年7月4日 - 5日の2日間にわたり、ウィンブルドン準決勝でグラフと最後の対戦をする。全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を果たす。全米オープンで2年連続ベスト8入り。

 

スペインのコンチタ・マルチネスには「6勝2敗」と大きく勝ち越した。この年の活躍により、WTAアワードの「最も上達した選手賞」(Most Improved Player of the Year)に選出された。この大会では決勝でグラフに完敗したが、準決勝でガブリエラ・サバティーニを 1-6, 1-5 の土壇場から逆転し、1-6, 7-6, 7-6 で逆転勝利を収めた。この年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成するが、準決勝でアランチャ・サンチェスに 5-7, 3-6 で敗れた。

 

3月末の「リプトン国際選手権」4回戦でシュテフィ・グラフと初対戦。敗れたものの、この準決勝はテレビ東京系の地上波でゴールデンタイムの午後9時から放映された。全仏オープンで4大大会にデビュー。予選3試合を勝ち上がり、本戦2回戦に進出。グラフとの通算対戦成績は1勝7敗。1988年のインターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の3冠獲得を達成する。

 

しかし8月25日、アメリカ・サンディエゴで開かれた「トーシバ・クラシック」決勝戦でサンチェスを 3-6, 6-3, 6-0 で破り、WTAツアー7勝目を挙げた。またアメリカのリンゼイ・ダベンポートの若き日の好敵手でもあった。

 

7月12日には日本サッカー協会理事に、同協会犬飼基昭会長の推薦で、平尾誠二(神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャー)とともにサッカー界以外から就任した。また藤原里華と臨んだダブルスでも決勝で米村明子、米村知子組を破って17年ぶり2回目(藤原は6年ぶり3度目)の優勝をかざり、吉田友佳以来5年ぶりの単複2冠の達成者となった。

 

37歳にしてプロ復帰したのは「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と記者会見で語った。同年4月27日、岐阜市の岐阜メモリアルセンターにある「長良川テニスプラザ」で開催された「カンガルーカップ国際女子オープン」のシングルス予選で現役復帰する。

 

現本名の「クルム伊達公子」でプロ登録した。38歳での優勝は、宮城黎子が1963年に41歳で優勝し大会8連覇を達成した時に次ぐ年長記録である。3戦全勝で予選を突破し、本戦1回戦では藤原里華、準々決勝では中村藍子を破り、決勝まで勝ち進んだが、タマリネ・タナスガーン(タイ)に敗れて準優勝に終わった。

 

2008年4月6日、伊達が現役復帰を決意したことが報じられた。[3] 4月7日に復帰記者会見を行い、12年ぶりにツアープレーヤーとして再びコートに立つことを表明する。15歳のジュニア選手・奈良くるみと組んだダブルス決勝では、ニコル・タイセン(オランダ) & メラニー・サウス(イギリス)組を破って優勝した。

 

11月には全日本テニス選手権に出場、女子シングルス決勝で瀬間友里加(ピーチ・ジョン)を破って16年ぶり3度目の優勝をかざった。同年6月15日、東京有明国際女子オープンシングルス決勝で、主催者推薦で出場の18歳秋田史帆を 6-3, 6-2 で破り、シングルスでのプロ復帰後初優勝を果たした。当面は同年11月の全日本テニス選手権出場を目指し、国内のツアー下部大会を中心に参戦を予定している。


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