日本のテニス界

日本のテニス界

1995年ウィンブルドン選手権男子シングルスでのベスト8は大健闘といっていいだろう。やがて、1989年にプロ転向した伊達公子が、1990年代に目覚ましい大活躍を遂げ、日本人の女子テニス選手として初の世界ランキングトップ10選手に成長した。1980年代に活躍した井上悦子はその先駆者的な存在となる。

 

1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。同時期には沢松奈生子、雉子牟田直子、長塚京子、神尾米、遠藤愛、佐伯美穂、吉田友佳、杉山愛等が次々と世界ランキングトップ100入りし、日本女子テニスは全盛を築く。またその年に開催された第7回オリンピックで日本がシングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得した(尚このメダルが日本のオリンピック最初のメダルである)。

 

その浅越しのぶは2006年を最後に引退を表明。 用具の調達が困難であったことからゴムボールを使う日本の独自の軟式テニス(現在のソフトテニス)を考案し、独自の発展を遂げた。

 

それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少ないが、2008年に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たして全米オープンでも4回戦に進出、世界ランキング100位以内に入った。近年は松岡修造の健闘があった。彼らはその独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で大活躍し、世界を驚かせた。しかし伊達が1996年に引退した後、他の選手の勢いも衰えた。

 

その軟式テニスで育った選手(熊谷一弥、清水善造、佐藤次郎等)が硬式テニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。

 

平木理化の1997年全仏オープン混合ダブルス部門での優勝もあった。森上亜希子、中村藍子、森田あゆみなどの今後の活躍が望まれている。日本へのローンテニスの伝播については諸説あり、いまだ詳らかではない(なかでは1878年にアメリカのリーランドが文部省の体操伝習所で紹介したという説が広く流布しているが、確たる証拠はないとされる)。また熊谷が主に米国で活躍し、クレーコートで無類の強さを発揮した。

 

2004年2月に杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たしはしたが、杉山と浅越しのぶ(伊達の後輩にあたる)の活躍に頼りきりの状態が長らく続いてきた。佐藤は当時の世界ランキングで3位まで昇りつめたが、1934年4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をする。

 

清水は1920年のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝に進出し、当時の世界ナンバー1だった米国のビル・チルデンに肉薄した。平均的な成績(アベレージ)はいくらか低かったものの、ピーク時は限りなく高く、時にトップランカーと互角に渡り合い、そして倒した。

 

女子では1975年のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝したことが日本テニス界の起爆剤となり、世界挑戦を目指すプロ選手が増えてきた。

 

ヘミングウエイの第一次世界大戦の経験から生まれた”武器よさらば”が世界恐慌の年に発表されたのも何かの因縁かもしれない。デヴィスカップでは大きな位置を占めるダブルス。日本庭球界が独自招聘した興行は大成功を収めその収益は1万2千円にも上った。

 

同年のデヴィスカップ収入が734円だった事からみても如何に日本国民の注目を集めたかが偲ばれる。時代の変わり目には傑出したスターが一挙に生まれるものなのだ。世界恐慌1929年の最中、来日したフランス選手団のプロフィールは以下の通りであった。

 

アンリ・コシェはリヨン・テニスクラブの管理人の息子ゆえ7歳の時には既にテニスの基本を身につけており、日本人と同じような体格で世界1位となったゆえ、日本選手はこぞってコシェの真似をしだした。それは大きな間違いだと後に気付く事になるのだが。現在、錦織圭選手がストックホルムで大活躍し世界の注目を集めている。

 

フランス四銃士といわれたうちの二人。1918年に終わった第一次世界大戦後の好況でバブル絶頂をアメリカは迎えていた。一方のブルニヨンは、テニスの女神といわれたスザンヌ・ランランのパートナーとして100名ほどの候補者の中から選ばれたエリートであった。

 

それは、ハンフリー・ボガードとアル・カポネ、アーネスト・ヘミングウエイであった。一方その頃のアメリカでは重大な変化が起きつつあった。1924年にアメリカが打ちだした移民法により悪化の一歩を踏み出した日米関係がなんとか30年代まで決定的な破局を迎えなかったのは原田や佐藤のスポーツ親善大使としての存在が大きかった。

 

円がまた世界の基軸通貨としての力を取り戻しつつある現在、原田武一と錦織圭の姿がだぶって見えるのは私の考えすぎだろうか?世界に正しく日本が理解される為もう一度テニスの力を信じてみても良いのではないか?混乱した世界に希望を与えるのは日本の使命だと感じる今日である。その重大な変化とは?★世界恐慌時の変化を過去から学ぶには★世界恐慌前夜の1924年、アメリカには原田武一がいた。H・コシェとトト・ブルニヨン。

 

世界が漠然とした不安に包まれている中日仏親善試合は、人々の心を癒したに違いない。何しろアメリカという国はスポーツが大きな力を持つ国だからだ。その巧者としてのブルニヨンの来日の意味は大きかったに違いない。武一と同じ年代のスター達も活躍し始めていた。

 

東京ローンテニスクラブ近くの特許庁庁舎敷地に4,000人が観戦できる木造スタンド付きコートが新設されたり、甲子園の新設コートには5,000人の観衆が集まった。スコット・フィッツジェラルドがマイロストシティを書き、街にはダンスミュージックとしてのジャズが席巻し、狂乱の時代を迎えていた。

 

inserted by FC2 system